2010/08/28

あー夏休み/TUBE

「TUBEが25周年」とテレビで見て、そりゃワシも年を取るわけじゃわい、と思いました。
Wikipediaで確認するとデビューが1985年で、「シーズン・イン・ザ・サン」が1986年。なるほど、サザンオールスターズが"KAMAKURA"発売後に休養していた時期に「夏バンド」として陣地を固めていった訳ですね。

突出した個性がメジャーな成功を収めたとき、その利用の仕方にはいろいろあります。
一番素直なのは、その人がシンガー・ソングライターだったときに、本人に曲を発注する。「襟裳岬」や「シクラメンのかほり」なんかがそうです。元ネタの人たちにお金が入るし、いちばん良心的です。それでも昔は「歌謡曲の歌手に曲を提供するなんて…」と非難されたりしましたので、リスクはあったんですが(みんながピュアでいい時代だったなあ)。

次にシンガー・ソングライターの作風というのはある程度パターンが決まってますので(日本のシンガー・ソングライターは勉強熱心なので、職業作家的な幅をだんだん持って行きますが)、職業作家にそれ風の曲を作らせて売る、という手もあります。ナベプロ期待の大型新人のデビュー曲が「これってアンジェリ…。でも作曲家違うよね…」と純真な高校生を動揺させたりするパターン。

また、休養が多くてインターバルの長い、天才肌のシンガー・ソングライターが静かにしているあいだに職業作家にそれ風の曲を書かせ、パフォーマーとしてそこそこ力量がある歌手に唄わせることで存在そのものの代替を作っちゃうことある。ビーイング以降はその手が主流です。「宇多田ヒカルを分かりやすくしてもうちょっとカワイイ女の子に唄わせ…」って話はもういいですね。
TUBEも基本的にはそういう存在でした。夏・海・湘南をテーマにした軽快なロックサウンド(?)…。最初のうちは織田哲郎などから提供された曲を歌っていましたが、やがて自作曲を歌うようになります。その最初の頃の曲がこれ。

この歌詞がすごいことになってます。

湘南・葦簾・防波堤…、あげるときりがない。「夏休みといえば」というお題に忠実に単語を並べ、つなぎでいかにも桑田佳祐が使いそうな「ちゃうのかい」「チョイト」などのくすぐり、なぜか渡辺美里ふうに「泣いたっていいんじゃない」なんてのを混ぜてます。できあがりは純和風。
桑田佳祐の書く湘南の歌は、生まれ育ったリアルな場所を歌っているにもかかわらず、どこか映画(加山雄三とかの日活も含む)のシーンのようですが、前田亘輝が書くと、うんと庶民的になるのが面白いっちゃあ面白い。

サザンオールスターズっていう大きい塊の中から「夏・湘南+コミックバンド的要素」だけ抽出したらそれで25年やれたってのはマーケティングの勝利ですなあ…。

とはいえ、前田亘輝の声はたいしたもんです。声が太くて高い。
この声があれば、それこそカバーアルバムでもなんでも商売に出来ます。変にアーティスティックなイメージを作らずに、「陽気な海のオニイチャン」になったところで彼らは勝負に勝ったんですね。
音域も広い。「あー夏休み」の音を鍵盤で拾ってみると、「あーなつやすみー」の「あー」はBです。もう女性歌手でも地声の限界近いです。

2010/08/14

再掲:宇多田ヒカルの話

2007年5月に「はてなダイアリー」に書いた宇多田ヒカルの話です。
8月9日の本人のブログで発表された宇多田ヒカルの休業宣言については、私もなにかひとこと書きたいところなんですが、一から書く体力(ていうか根気)が無いので、まずここまでは考えました、ということで過去の自分の記事を再掲します。以下、ほぼそのまま引用します。


(前略)多分、宇多田ヒカルも現代に生きて活動している音楽家なので、他のアーティスト同様に営業面の苦労はあると思います。特にデビュー直後の数年は、東芝EMIの営業部のマネージャーなんか前年実績に凄い数字が残っていて、会議の時に「えー、去年は"First Love"特需があったものですから…」「バカもん、今年は今年だ!」とか怒られていたのではないでしょうか?まあ会社のことはさておいて単純に彼女個人のことを考えても、事実上のデビューアルバムが 800万枚も売れちゃったら、そんな数字が二度と出るとは思えませんから、次はどれだけ売れようと「落ち目」と云われてしまうと思うでしょう。そこでやり逃げしないで現在までコンスタントに新作を発表し続けたのはたいした精神力だと云って良いと思います。なにせ当時の彼女は高校生だったんですからね。

そういう厳しいプレッシャーがかかる状況に負けずに彼女が音楽を続けてきた理由は、天性の表現者だからでしょう。音楽が好きで、音楽によって自分を表現したいという意識を強く持っている。そしてそれは彼女の心のかなり深いところから来ているのではないかと私は推測(邪推?)しています。

70~80年代の「ニューミュージックのアーティスト」は、自作の恋の歌を歌いながら「歌詞は実生活とは関係ありません」とか「あくまでもフィクションです」という言い方をする人が多かった。また、その頃の男性シンガー・ソングライターは「歌詞が書けなくて」と云う方が格好良く見えたということもあります。男性アーティストにとっては「男が詩を書くなんてはずかしい」というアマチュア的なテレがあったように思うし、逆に「俺はサウンド重視のアーティストだから」というポーズにも使っていたのでしょう。槇原敬之みたいに「僕は詞先です」なんていう男性アーティストは稀だった。

女性アーティストにしても、アイドル視しているファンが多ければ、あまり波風の立つ発言はし辛かったでしょうし。

男性アーティストにおいては、その風潮がずっと続いているから、今も歌詞が伝わらない曲ばかりできてくるのかもしれません。それでも女性を中心に実体験を素材にしている人も出てきており、そのあたりの姿勢は改善されつつあるようですが、次の欲求として、表現のレベルをもっと高くして欲しいという不満があります。お昼に茅場町の定食屋でOLがしゃべってる内容と変わらないようなのが多い。

そこで宇多田ヒカルはどうか?

例えば、「ぼくはくま」のくまちゃんは、「歩けないけど踊れるよ」「しゃべれないけど歌えるよ」と云っています。彼女にとってお気に入りのぬいぐるみの「くま」が自分の分身であるのはほぼ明らかなので、彼女は自分のことを「他のことは無力だけれど、音楽が絡めば(踊るとか歌うとかの)能力があるよ」と云っているわけです、多分。


若くしてミュージシャンとして破格の成功をし、高校を飛び級で卒業して名門大学に入った彼女の、何が無力なのか?それは多分、家族(両親)とのコミュニケーションにおいてなのではないか?両親それぞれは自分をかわいがってくれた(想像)が、3人揃うと不安定になる家族。一人っ子の彼女は両親が仲良くいっしょにいてくれることに幼少の頃から必死で心を砕いていたのではないか?と同じく一人っ子の私は思います。

こういう子どもは「アダルト・チルドレン」になるんじゃないですか?彼女が早熟の天才になったのは、自分が早く活躍して柱にならないと家庭が崩壊すると感じていたからでは?また、意外なほど早くに結婚してしまったのはその裏返しでは?

そしてつい最近の様子を見ても、父と夫がスタッフとして名を連ねているコンサートツアー中に、なんで一人ホテルの部屋で熊のぬいぐるみとお話をしてなくちゃいけなかった(昨年の夏頃からの本人の日記を読みましょう→http://www.u3music.com/message/index.php?m=1)のでしょうか?

彼女の心の傷はかなり深く、しかしだからこそ表現者であるというのが私の邪推です。彼女自身が自らを救うために曲作りという作業を必要としているのではないか、と。こういう深読みができるから彼女から目が離せないのです。

さて、表現上の話もしてみましょう。

まず歌唱。

彼女の歌は歌詞が聞き取れます。

前にも書きましたが、"Comぴゅうたあ Screenのなかー"(Automatic)など、バイリンガルの気ままさでネイティヴ風英語とカタカナ語を奔放に使い分けたりするので、歌詞カードを読まないとわかりにくいところはありますが、きっちりした日本語のところはちゃんと聞き取れます。聞き取れるように歌うと言うことは、「聞かせたい歌があ」って作品を作っているからでしょう。


また、MISIAのような圧倒的な声量と伸びやかな声というわけではありませんが、お母さん譲りのハスキーボイスと音域の広さをもっています。それと人間なのにバイオリンみたいに聞こえるビブラートも魅力です。これらの財産は彼女の曲作りに良い影響があるでしょう。やっぱりレンジの広い楽器で作った方が、メロディの展開に幅ができますから。かといって声を出さずに鍵盤だけで作ると、ちょっと前に時代の寵児となった某大プロデューサー&コンポーザーの作品のように、小難しい割に歌った後に満足感が得られない曲になってしまいます(ま、だからこそ宇都宮隆のボーカリストとしての素晴らしさが味わえたんですが)。


そして歌詞。さっき「ぼくはくま」を題材に邪推を重ねましたが、彼女は若いながらも、あるいは若さ故にその人生の節目節目で「何かあったこと」をかなり正直に歌にしているように思います。"Can You Keep A Secret"では恋をしてるのかな、と思わせるし、"travelling"ではなにか活動上の大きな展開をもくろんでいるように思いました。"Flavor Of Life"も今の状況から深読みすれば「ふんふん」と納得できるところが多々あります。彼女は基本的に私小説作家です。

私はデビュー当時のオフィシャルサイトでの日記を結構ちゃんとチェックしていましたが、彼女は今の日本の高校に通う生徒に比べて(おそらく)はるかに日本の古典を読んでいます(私もあんまり読んでないので負けている)。それも夏目漱石とかの近代の文豪のやつ。私小説的表現に対して、今の若者には珍しいほど親近感を持っているはずです。

また、ヒップホップの台頭以降、突然流行りだした韻を踏む作詞法(松本隆なども意識的に言葉遊びをやってきたが、しばらくはあまり追随者がいなかった)も、彼女は谷川俊太郎に近い、より日本的センスで取り入れています。この辺は学校で優等生だった教養を感じさせます。「ぼくはくま」に話を戻すと、「くまくまくま くるまじゃないよ」も谷川的。

コンポーザーとしてはどうでしょう?

彼女は「クイーンが好き」と云っています。両親の趣味なのか、若いのに結構古い音楽に親しんでいます。だから、曲の中に我々ニューミュージック&MTV世代にとっても、分かりやすい展開が混じっています。例えば"Automatic"の「きーみにあっうとーぜんぶーふっ」のメロディはちょっとマイケル・ジャクソン(これも本人が好きだと云っていますね)の"Human Nature"のサビのにおいがします。


そして、そこがあるからR&Bに疎い私も一発でついて来れたんです。また"Wait & See"なんかは作者の意図は知りませんが、あのサビの畳み込みとバックコーラスなんか、後期オフコース好きの私にとって、まったく抵抗なく「大好き」と云える出来でした。

つまり、ぶっちゃけて言いますと、彼女は我々小父さんと話が合うんですな。

若いのに昔のことをよく知っているし、年上の人間にも分かるように表現をすることができる。これはかわいがられるでしょう?

そして、年上の人間をころがすことにかけては、大人の集団の中でたった一人の子どもとして育つ一人っ子は、無理しなくても自然にできるのです。

「おまえ、なんでその年でそんな古いこと知ってるんだよ」とか言われながら、苦もなく話の輪に入る。ましてやそこそこ頭が良ければ完璧です。

てなわけで、中年から見て見所のたくさんある彼女は、顔はお母さんほど美人じゃないけれど可愛い娘のようでもあり、私も今しばらく彼女の作品は注意して見ていくつもりでいます。

海外進出(失敗?)以降、ここ数年、世間の評価が良く分からないところがある(というか最近の彼女に関する評論って売上推移のことしかないんで、これだけ読み込める素材に対してもったいないことこの上ないと思う)んですが、出てくる作品としては私は実質2年目の"For You"の頃の方が、先が見えてこない気がして心配でした。それに比べればこないだの"Passion"なんかは本人が実験をしたかっただけで、今の松坂の四球病ほどの深刻さもないでしょう。

それよりも、彼女の感性を同世代の若い客層がどのくらい共有しているのかの方がよっぽど心配です。若者よ本を読め、昔の曲を聴け。宇多田ヒカルの感性を共有しなさい、と訴えたい。そうすると今売れている、商品としては一見完成度の高い音楽の中に、欠落している(と私が思っている)ものも分かってもらえると思うのです。

SOFTLY/山下達郎(初回限定版)(特典なし)

 先週末くらいからメディアでがんがん露出していて、嫌でも目についた山下達郎の新作アルバム、Amazonでぽちっておいたら無事に今日、郵便ポストにメール便で入っていました。 前作「Ray Of Hope」の感想文を書いたのもそんなに前のことではない、と思っていたのですが、あれからも...