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2009/11/08

罪と音楽/小室哲哉〜その2〜

予告からずいぶん間があいてしまいましたが小室哲哉の第2回を始めます。
作曲家小室哲哉とはどんな作家なのか?

前回、私は「小室哲哉のメロディには歌心がない」「歌い手にとって過酷なわりに歌う喜びがない」という話をしました。今日はその辺りを…。


そこでですね、いきなり小室作品の話ではなく、小室哲哉と正反対のところにいると思われる
「ミスター歌心(今勝手に名付けた)・松山千春」の曲を見てみましょう。なんでも良いんですが、例えば「人生(たび)の空から」。


1〜2小節目のメロディの塊が3〜4小節目ではほぼ1度下に降りてもう一度繰り返されます。単なる繰り返しではなく呼びかけと返事の形になっています。こうなっていると歌い手は変化を付けることができますし、楽しいことに向かって進んでいる気持ちになれます。MacのGarageBandでピアノロール表示させるとこんな感じ。

「みみをす」でとんとんとんと下がって「ま」から「せ」で1オクターブぽんと上がりちょっと下がってロングトーン。こういうのは歌って楽しいですね。そして2回目のメロディでは「き」から「て」で今度の跳躍はちょっと短くて済むようになってます。ちょっと楽ができる。この曲はこの後更に跳躍を繰り返してサビでは最高音域をたっぷり使って「たびのーおわーりにー」と見せ場たっぷりに展開して行きます。1〜2小節でエンジン掛けて、3〜4小節でちょっと力をためてからいよいよ本番、とカバーする声域さえあれば歌って楽しい曲です。

松山千春は傍目で見ている範囲でですが、曲そのものの芸術性の追求よりもまずは「松山千春の声で歌ってどうか」に重きを置いて作品を作っている気がします。一番得意なF4~G4あたりの音域をいかに多用して色気を出すかに一番興味がある。私はそう思ってます。それは一方で松山千春の音楽の範囲を狭めているのではないかと思うのですが、私はシングル曲以外はほとんど聴いていないので、断定はできません。


さて、小室作品にも歌って楽しい曲がまったく無いわけではなく、例えば渡辺美里の「My Revolution」は声が出る人にはとても楽しい曲になっています。

引用部分の1〜2小節で「ドドドドドドドレードシド」と呼びかけ「ミミミミミミミミーレレー」と答えます。この似ているけどちょっと違う繰り返しが歌い手には嬉しいんですね。それから「My~Tears」「My~Dreams」の5度の跳躍で声を裏〜表〜裏〜表と切り替えて行くのは喉に覚えのある人には楽しい見せ場になります。
My Revolutionは小室哲哉がまだいろいろなことを証明しなければならなかった若い時期の作品であり、彼なりに当時の売れる音楽を分析した結果の作品だったのだろうと思います。


My Revolutionがヒットして作曲家・小室哲哉の初日を出した後、自分のユニットであるTM NETWORKで1年後に発表した「Self Control」ではもう、その後の小室作品と共通のエゴイスティックな(?)メロディになっています。

「Self Control」の一部を譜面に起こしてみました。


出だしの2音目以降、「みをつれーさるーくる」まで同じ音。ま、ここまではフォークソングなんかにもありますが。
B メロになるとちょっとメロディが動き始めます。「しばーらーれーたあだむといぶ」のメロディはそれなりに開放感があって「歌いで」のあるメロディなんですが、「はしーりーぬーけた〜」「たいーせーつーな〜」と3回まったく同じ繰り返しは辛い!そこを通り抜けて「くもらせなーいでー」とやっと解き放たれたと思うとサビがまた、細かい音符&尻下がりのメロディなんです。

前述のピアノロールだとこう。

だいたい歌い手というのは自分の最高音からちょっと下あたりが一番気持ちよく歌えるわけですが、このメロディは最高音に行った次の瞬間、中低音域まで一気に下がるという場面がとても多いのです。速いテンポで上に行ったり下に行ったりする割に自分の気持ち良く歌える音域をほとんど使わせてもらえません。辛い!

結婚前の安室奈美恵が苦しげに歌っていた"CAN YOU CELEBRATE?"はこうです。

私はこの曲の音を拾うためにiTunesでアルバム「181920」のバージョンを落として聴いていましたが、相当ぐだぐだになってます。超多忙だった安室本人の当時の体調とかもあると思いますが、ちょっとこれは?という歌唱になっています。

この曲も"Self Control"と同様、細かい音符&高音から急降下、伸ばしもためもない、というメロディ。冒頭部分のピアノロールはこんな感じになります。


松山千春と比べてみましょう


「人生の空から」にはオクターブの跳躍も含めて、小さな波と大きな波を繰り返す自然なうねりを感じるでしょう?「Can You Celebrate?」も鍵盤楽器で弾くときれいなメロディですが、なんというかモールス信号かなにかを連想させる無機質な法則性を感じませんか?

そしてひらうた部分「なーがくー〜」以降だとこんなピアノロールになります。


ほらモールス信号だ。

つまりですね。
小室哲哉って人は人の声もシンセサイザーも同じだという感覚でメロディを作っていたんじゃないでしょうか?「このタイミングでこの音程で、この長さ。ベロシティはこう」ってシーケンサーに打つ感覚。

そこにはそれ以前の日本の音楽に対する批評もこめられていたんだと思います。
演歌の大御所みたいにバックの和音がどう変化しようが自分が伸ばしたいだけ伸ばして喝采を受けてる人がいる中で「ボーカルも音楽の一部なんだから音楽の構成要素としてもっと全体のハーモニーに忠実であるべきだ」とか。
あるいは「ボーカリストのやつらはフロントで目立って女の子にキャーキャー言われてやがって、なんで俺らはこんな機材の隙間で汗かいてなきゃいけないんだ、気持ちよくなんて歌わせねえぞ」というボーカリストに対する演奏・作曲担当の反乱だったのかもしれない。

「安室?じゃ使えるのはG3〜D5ね。宇都宮?じゃD3~G4の範囲ね」とパートとして打ち込んで行く感じ。

そこでまた、邂逅としか思えませんが、TMの宇都宮隆って人はロック系ボーカリストには珍しい自己主張の無いタイプで、天然ボーカロイドみたいな人なんですね。 小室哲哉の制約の多い、気持ちよくなれない楽曲を(たぶん)文句も言わずに一所懸命歌うんだ、彼は。松山千春のように自分の売りの声域に拘るタイプだったら絶対 すぐ解散してたでしょう。

小室哲哉はボーカリストの気持ちよさを二の次にして、サウンドを構築する一部として歌メロをもう一度配置しなおした人と考えられます。そのことによって、それまでのどうにも歌手偏重だったJ-POPにはなかった芸術性(音楽性?)を手に入れたのではないかと思います。

ただ、その一方で彼は「カラオケ」のマーケットを意識していたという話もしているので、それはちょっと不思議なところです。彼が言うには「カラオケヒットの三大要素は」「発散・社交・エクササイズ」なのだそうです。「ダンサブルな曲で発散」「一緒に声を張り上げる社交」「練習が必要な高いキーはエクササイズ」。TRFやH.Jungleはそうやってできていた、と。
その辺に「歌うの大好き」な私は疑問がある。エクササイズには達成感が必要じゃないか?と。体重が減った、とかベンチプレスが何kg上がるようになった、とか。一緒に声を張り上げるにもそれを喚起するメロディというのがあるのでは?
同じように高いキーで歌われる広瀬香美の曲などに比べて、歌った後の達成感、快感に大きな違いがありゃしませんか?

その理由は上記の通りです。
自分の一番良い声を聴いてもらえたか?出したい声が出たか?その機能にちょっと乏しいのではないか、というのが私の見立てです。

小室哲哉にその辺が分かっていたのか、実のところは分かっていなかったのか?どこまでが計算で、どこからが彼の限界なのか?これは本人にしか分からない事なんだと思います。

2009/05/07

綺麗ア・ラ・モード/中川翔子(その2)

今週の始めに、去年書いた中川翔子の話のところにaediftさんからコメントをいただきました。このBloggerのフォーマットはコメントが埋もれてしまうので、本文の方に出させていただきます。
この曲は、まずメロディの系統的には、80年代より前、ニューミュージックよりさらに前の(それこそ筒美第一全盛期の)70年代前半の、(このメロ自体が特にどれに似ているということではないが)尾崎キヨ彦や、ちあきなおみ(や和田アキ子)が歌いそうなトーンのものに「強いて言うなら」聞こえる。
 そしてサウンド、響きの雰囲気的には、それらに加えて、80年代後半以降の、オルタナロックの影響を受けたそれ以後のポップスに出てくる音使いが頻出。
 つまり、80年代前半の、松田聖子全盛期の音楽の雰囲気を多分ほとんど持っていない。その時代部分だけがなぜか抜けているというほどに。当時の聖子のアルバムも多く聞いているが、特に似ていると感じさせるような曲はない。
 端的に言っても、当時の音楽はもっと「垢ぬけ志向で軽やか」、これは「やや熱め」。
 単に筒美氏が自由に書いたらこうなってしまっただけなのか、百戦錬磨だった御大二人が、管理人さん仰るその「松田聖子ごっこ」を巧妙にずらしてやったらどうなるか、の作戦に意図的に出たものなのかはわからないが。
 ・・とまあ、個人的にはそういうふうにも思えます。

aediftさん、コメントありがとうございました。

大意としては80年代の松田聖子にはあまり似てないと思うよ、ということだと思います。

そうですね。記事を読み返すと確かに私が書いた「(当時の松田聖子を)忠実に再現」はあまりに筆が滑り過ぎなのは間違いありません。週に1回くらいは更新しようと毎回焦って書いているのでどうも話を単純化して進めようとしてしまいます。

というわけで本日は、aediftさんご指摘のオルタナロックの影響までは絶対に行き着きません(よく知らないので)が、良い機会なので普通科高校卒業程度の音楽知識で追加の考察を書かせていただきます。

「綺麗ア・ラ・モード」の何をもって私が「松田聖子風」と思ったのかからお話しします。
表面的な聴き方かもしれませんが、最初に思いついたのが「ガラスの林檎」です。どこがどう、とは指摘し辛いのですが、例えば「ガラスの林檎」のAメロと「綺麗ア・ラ・モード」のBメロを4小節ずつハ長調にして貼付けてみました。

ギターコードは私がいい加減に弾き語り用につけました。実際の演奏音を拾ったわけではありません。「やにいぬ」は16分音符4つですが、体裁が揃うように恣意的に変えてあります。
不自然な音域の跳躍がありますが、ハ長調で始まって途中で短調っぽくなる、というニューミュージック系作品はたくさんあるので、これもありかなと…。
8小節目をG7にして「ガラスの林檎」の頭に戻ることもできますし、E7を入れて「綺麗ア・ラ・モード」のサビに向かうこともできます。似ていると思うのは4拍子なリズムと私がFのコードをはめたあたりの雰囲気ですね。強いて言えばこの辺?と思うところを緑で囲んでみました。

ところがBメロ後半からサビに向かうと全然違ってきます。
きっかけは「ながいてがすき」の「ナガイテ」のソ#です。
ここから後ろの臨時記号付き音符の多さはニューミュージック系作家の聖子作品(シングル曲だけ考えています)ではあまり見られないものです。
ちなみに、引用した範囲では臨時記号付き音符は出てきませんが、この「ナガイテ」以降、「かみにふレる」「ちがうソおらー」「すきーとオったみずノおと」のカタカナがそう。ハ長調に直したにもかかわらずピアノの黒鍵を使わなくてはいけない音は、1コーラスの歌メロで数えてみるとじつに11個あります。

同じことを松田聖子全盛期のヒット曲でやってみます。
チェリーブラッサム(作曲・財津和夫)=0
赤いスイートピー(作曲・松任谷由実)=0
ガラスの林檎(作曲・細野晴臣)=0
天使のウインク(作曲・尾崎亜美)=1(A♭ 冒頭部の「つケてあげる」)
ハートのイアリング(作曲・佐野元春)=2(B♭ サビ「くれなイの」「くないケど」)
裸足の季節(作曲・小田裕一郎)=1(E♭ ワたしです)
風立ちぬ(作曲・大滝詠一)=4(A♭ したためテイます」「あなたガクれた」)

参考
中川翔子/綺麗ア・ラ・モード(作曲・筒美京平)=11(A♭、G♭、B♭、D♭)
郷ひろみ/裸のビーナス(作曲・筒美京平)=7(A♭、E♭、B♭)

たとえば私がギター片手に、マイナーコードの曲の最後に「あなたがここにいる」というメロディを作ったとします。

一段目は歌謡曲風で無伴奏でも唄いやすく、流麗ですが「い」の半音がウェットな感じがして、年寄り臭い、暗いとも言えます。
二段目はギターの伴奏に引っ張られて何にも考えずに出てきた感じ。フォーク?としてみました。
三段目は意識的に一段目に似ないように注意しながら作ったメロディ。コードのE7-Amを例えばEm7-FM7などに変えちゃうとニューミュージック風になるかな?と。

80年代ニューミュージック系作家の闘いは、いかに歌謡曲や演歌にならずに曲を作るかということだったんじゃないでしょうか?その時に特に忌避されたのが、終止手前の「い」の音。E7のソ#の音なんじゃなかったのかなあ、と。これをやると流麗過ぎて歌謡曲になってしまうから。いっそ転調ならビートルズもやってるからいいけど、この音を入れるのはいやだったんじゃないか?

松田聖子に起用された作家たちはニューミュージックの中でも優等生で、特に大滝詠一や尾崎亜美はそのレベルから抜けていたと思いますが、一般にニューミュージック系の人たちはそれなりに耳が良かったり、外国の音楽に対する知識が豊富だったりしたんでしょうが、抽き出しの数や系統だった知識については不自由だったと思われます。
それに加えて「歌謡曲と距離を取りたい」という思いの狭間で、わざと棒を飲んだようなメロディを作っていたんじゃないでしょうか?あるいは起伏を抑えたメロディの、バックの和音が変化して行くことのかっこよさとかを打ち出したり…。
そのことで、当時、片や既成の音楽として演歌や歌謡曲の存在(さらに近親憎悪としての四畳半フォーク)があって、その湿っぽさに辟易としていた若者を中心にした音楽ファンは、この感じを洗練、クールと捉えたのでしょう(私はたしかそうだった)。
今思い出しましたが、当時の若者(つまり私たち)の間ではファッションでもカラフルなものよりモノトーンな感じが流行っていました。そして人間臭いことはカッコわるいことで、いかに無味無臭無色なクールでドライな存在でいられるか、という意識がとても強かったと思うのです。

そして、この「綺麗ア・ラ・モード」において筒美京平がやったことは、ある程度は80年代松田聖子ごっこ(相棒の松本隆はその気だし)にはつきあいつつ、でも自分の持つ能力をデチューンしてまで「忠実に」つきあいはせずに、半音階を多用した流麗でカラフルなメロディを作った(しかも「参考」で上げた「裸のビーナス」もそうですが、無伴奏で唄ってもこの半音が取れない、というメロディになっていません。鼻歌でうたってもちゃんと元の音に帰って来れるのが流行歌として素晴らしいですね)。
その結果、「綺麗ア・ラ・モード」は当時の音楽が持っていなかった色(彩度)や湿度を持ったのではないでしょうか(aediftさんは「熱め」と書かれていますが、私は彩度と湿度の違いと考えました)。

サウンド面の考察は私の手に余りますので割愛させていただきます。

Mine or Yours/宇多田ヒカル

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