2019/05/28

Apple Musicで聴く森高千里

週末に出張で特急電車に乗っていて、暇だったのでApple Musicを開いてみたら、今度は森高千里がトップ画面に出ていました。あー懐かしいねえ。「非実力派宣言」のジャケットが見えたのでそのまま聴いてみました。CD買ったわ、あの頃。

南沙織の「17才」をカバーしたことをきっかけに一気に知名度を増した森高千里がその勢いを加速させたアルバムです。この頃は「アルバムで聴く」というのが一般の人にも根付いていました。多分、カーステレオで流しっぱなしにしてたからなんでしょうけど。あの頃はみんな自動車に乗ってましたから。

「非実力派宣言」は森高千里をブレイクさせた記念碑的作品ですが、そうなってくると「俺はその前から知ってた」症候群の人がたくさん出てきたわけですが、そういう人たちが聴いていたのはアルバム「ミーハー」です。森高千里が自分で作詞するようになった最初の作品ですが、今聴くとやはり眠たい。杉山清貴と同じカラオケにちょっとおぼつかない感じで森高千里の声が乗っているミスマッチな感じ。森高千里は歌は下手じゃないけど声が小学生みたいなので、面白いっちゃ面白いんだけど、ちょっとどっちに行けばいいかわからない感じがします。

それが「非実力派宣言」になるとかなりガラッと音が変わります。
印象的なのは 「ぎゅっぎゅっぎゅっ♪」と入ってくるうるさいシンセのフレーズ。その一方で妙にネイキッド?なギターの音の多用。この2つの要素がいかにも「森高千里」の音、という感じがしますし、ここで森高千里はロックになったと思う。ちなみにZARDが出てくるのはこの後なんですね。当時はこの2組の音が似ていることに気がつきませんでしたが。

森高千里は当初はアイドル的に売り出すつもりだったが、そこそこ年齢がいってからのデビューだったので、作詞をさせることでアーティストっぽく売ることにしたようなのですが、その作る歌詞が挑戦的で面白かったので見事にハマったんですね。下に紹介する3枚を遡って聴くと、中途半端なシティ・ポップ風から森高千里自身の詩の力で風穴を開け、それがサウンドプロデュース側に影響を与えてだんだん個性が固まってきたんだということがよくわかります。

彼女が成功したおかげで、若いうちにブレイクし損ねたままトウが立っちゃったアイドルに作詞をさせれば、ちょっとルックスの良いアーティストとしてリサイクルできることがわかり、そこから巨万の富を稼ぎ出すビジネスモデルが確立したようです。







2019/05/21

Long Slow Distance/鈴木康博

80年代に聴いていた音楽の話は記憶でどんどん書けます(要注意w)。

オフコース脱退後のYassさんこと鈴木康博のアルバムもいくつかApple MusicからiPhoneに落として聴くことができます。ただし、私がフォーカスを当てたいソロ活動最初の10年くらいについては、アルバム単位で落とせるのがこれだけなんですね。ちょっと寂しい。

「Long Slow Distance」は鈴木康博のソロ・アルバム3枚目。1985年の作品です。タイトルは長距離走トレーニングの用語ですね。

おそらくこの頃のYassさんは、活動再開した4人のオフコースを横目で見ながら作品を作っていたと思います。もともと脱退の理由は音楽性の違いではなかったと言われていますので、あっちこっちと合わせてその後のオフコース、といった曲作りになっていても不思議はありません。

当時、私が音楽関係の雑誌記事などから断片的に読み取った情報としては、Yassさんは独立にあたって当時の最新鋭シンセサイザーであるところのフェアライト(たしか1600万円とか言ってた。小田さん愛用のPROFET5の10倍ですね)を購入していたはずです。これはデジタルシンセの走りであり、電子ペンで波形を書くとそのとおりの音を再生できるというものだったはずです。生身のギタープレイヤーである自身とコンピューターサウンドの融合をテーマにしていたようです。

さて、このような前振りがあって、Yassさんは、かたや活動再開メドも発表されないままの古巣を尻目に、1作目のアルバム「Sincerely」を1983年に発表します。私も発売早々に入手して聴きましたが、フェアライトのピコピコではなく、いきなりアコースティックギターとブラス音をメインにしたオーソドックスな曲が流れてきて、ちょっと拍子抜けした記憶があります。「素敵にシンデレラコンプレックス」もいっしょに収録しちゃえばよかったのに(すみません、ミーハーで)。なるほど、Yassさんは一人で完成度の高い音楽を作るためのツールとしてフェアライトを導入したのであって、別にテクノをやりたかったわけではなかったようです。ミディアムテンポの、オフコース時代の湘南海岸シリーズ(?)に近い曲が多かったかな。「潮の香り」の続編のような「入り江」という美しいバラードが収録されています。

翌年の1984年はオフコースが活動再開し、4月にシングル「君が、嘘を、ついた」を、6月には先日ここで書いた「The Best Year of Life」が発表されます。
 Yassさんは同年の9月に2作目の「Hello Again」を発表しています。制作過程でオフコース新作の影響があったのかなかったのか、興味深いところです。私は2曲めの「雨がノックしてる」を「君が、嘘を、ついた」のアンサーソングと見ました。

で、やっと今日の本題「Long Slow Distance」の話にたどりつきます。

1985年、年1作のペースを守って3作目のアルバムとして発売されたのがこのアルバムです。私の見立てではYassさんのキャリアの中でももっともヒットを意識して作られた作品だと思います。アルバムの最後に「City Woman」が入っていますが、この曲はWikipediaによると「黄桜マイルドのCMタイアップ」となっていますし、当時なにかのインタビューでYassさんは「『City Woman』は自分の中では演歌」と語っていました。ハッタリの効いたシンセサウンドと覚えやすいメロディはかなり売れセンを意識したものになっています。「Long Slow Distance」は8曲入り36分のわりとコンパクトなアルバムですが、奇しくも小田さんの「K.ODA」がそうだったように「鈴木康博はこういうことができます」というプレゼン資料としてよくできていると思うのです。

そして、久しぶりに通してこのアルバムを聴いてみると、実はYassさんの音楽は意外なほど山下達郎に近いことに気がつきます。メロディとかじゃなくて作り出す全体の音が。オフコース時代、ハ長調カノン進行担当の小田さん、R&Bとハードロック方面担当がYassさんというイメージでしたが、オフコース結成時での音楽的素養はYassさんの方が高かったようですし、音の嗜好が山下達郎とカブるのは不思議ではありません。

要するに、とまとめるのも変ですが、オフコースのふたりでいうとYassさんの方が小田さんよりミュージシャン的というのか職人的な人なんだろうな、と思います。大学でもロボット工学を学んでいたエンジニア志望の人だったんですよね。小田さんは建築家の勉強をして、後に(総合芸術である)映画の監督をやるような人だったわけで、その辺の個性の違う二人の緊張感でオフコースができていたんだなあと思いました。

2019/05/19

Apple Musicで聴く昭和のテクノ

先日、出張中に新幹線の車内でふと「ヒカシュー」という単語を思い出して、「そういえば、Apple Musicで昔のテクノポップとか聴けるんだったかな?」と検索してみたら、なんだたくさんあるじゃないか!というわけでそのまま何枚か聴いてみました。


  • ヒカシュー/ヒカシュー

アルバムタイトルとしては「うわさの人類」の方が記憶に残ってたような気がするけど、「20世紀の終りに」を聴きたかったので1980年作のこちら。リズムマシン、モノシンセによるベース音というテクノポップらしい音と、今思うと劇団ひとりに似た感じのボーカルが、独特の歌い方で押し切るバンド。楽器の音が数えられるようなシンプルなトラック。後年のヤマハのキーボードでそのまま出せるようなコーラス音も使われています。



  • WELCOME PLASTICS/PLASTICS

関連するアーティストのところに今度はPLASTICSを発見!
プラスチックス(プラス「ティ」ックスじゃないんやで)も1980年の作品。知ってる曲は「COPY」。YMOを別格とすると当時のテクノポップではこれがど真ん中だったのではないかな?
どうせ機械が演奏するんだからと、プロっぽいテクニックとかニュアンスとか関係ないところで作られた音楽は当時聴いても単純でしたが、それは当時のテクノロジーの限界に規定されていました。
なんせ、当時の電子楽器はやっと和音が出る(それも4音とか6音とか上限があった)ようになったところで、素人がギターを買うように買える値段のシンセサイザーは、たいてい単音か、せいぜいユニゾンで二つ目のオシレーターを鳴らせる程度。作曲ソフトとかもなくて、物理的に機械で次に鳴らす音(音程、音量、長さ)を指定して並べ、16音符ぶんを自動演奏させる程度のものしかなかったわけです。1曲を再生するにはテープレコーダーに多重録音するしかない。今はタブレットひとつで数段高いレベルの曲を作ることができます。でも、当時はそれがカッコよかったし、演奏能力に関係なくセンスだけを武器に音楽で勝負ができたいい時代だったとも言えます。YMOは別格として。

  • 改造への躍動/ゲルニカ

同じく、ヒカシューのページに関連で出てくるのが戸川純とそのユニット。時代を合わせてゲルニカでいいか、と「改造への躍動」を聴いてみます。これはテクノというよりニューウェイブて感じでしょうか。上の2枚の頃はは高校生でしたが、ゲルニカが出たときは大学生になっていました。
私の大学だけではないと思うのですが、当時はキャンパスに薄ぼんやりと学生運動のにおいが残っていて、そういう残り火的左翼系サークルやら、もっと怪しい宗教系サークルなどが夕方になるとじわじわと湧いてきて活動しているという雰囲気。メディアも今よりずっと為政者に対して批判的だったし、なによりまだ戦争体験をリアルに語れる人がそれぞれの親類縁者にたくさんいて、不用意な勇ましい発言に対するチェックも今より敏感で、それに対する批判ももっと論理的だった気がします。
そんな「偏向報道」が横行する世の中をなんとか変えて、自民党がやりやすいメディア環境を作るため、フジテレビなどが日本人がもう、みんな馬鹿になるような「楽しい番組」を積極的につくり始めたころです。その後、ソ連の崩壊や謎のバブル景気などもあって、この活動は大成功するのですが、そのちょっと前の時代ですね。
私もそういう「もっと資本主義と仲良くしようよ」的なサークルの部室から漏れてくるYENレーベルのレコードの音を、隣の部室でぼんやり聴いていたものです。
ゲルニカのアルバムには、そんな時代の気分を先取りしたような、あるいは茶化したような、戦前の日本あるいは近代化をめざすアジアの独裁国家の唱歌のような曲が並んでいます。YMOの人民服とはつながっているようないないような…。そしてプロデューサーが細野晴臣。当然、音楽性は当時の「雨後の筍」的テクノポップとは全然レベルが違います。

この3作はいずれも80年代の文化の代表として捉えていただいて良いのですが、残念ながらどれを知っていても若い女性にモテるためのツールにはならないところが残念です。

それにしても今思うと80年代というのは何をやってもOKな空気があって、玉石混交ではありますが、思いつく限りのあらゆるおふざけ、不謹慎、楽屋落ちの実験がされた時代でもあります。だから最近のメディアに出てくる挑戦的と評価される文化についても、大概は「あー、はいはいその感じね」で消化できてしまう可愛くない年寄りになりつつあります。








2019/05/05

日本の恋と、ユーミンと。/松任谷由実

 さて、とうとうユーミンがストリーミング配信されるようになりました。随分と掘りがいのある鉱脈に出会ってしまったものです。

 私は兄弟もおらず、基本的に昭和一桁の両親と見るテレビだけで幼少期の音楽体験をしてきましたので、ユーミンのことを知ったのは、随分と年長になってからのことでした。
 おそらく最初に聴いたのは母が午後に多分再放送で見ていた連続ドラマの主題歌として使われていた「あの日にかえりたい」だったと思います(なんのドラマだったんだろう。あまり重要なことではないので調べずに素通りしますが)。

 私にとっては検証をしないうちにとんでもない大きな存在であることだけが結論として伝えられたのがユーミンです。そりゃ私もバブル時代を生きてきましたし、「私をスキーに連れてって」もレンタルビデオで見ましたから、大人になった頃にはなんとか追いついたんですけどね。

 Wikipediaなどで確認してみると、1983年の「VOYAGER」から1995年の「KATHMANDU」までの干支一回りの間、判で押したように11月下旬から12月上旬にアルバムが発売されています。この間、日本人が毎年の暮れになるとユーミンのアルバムを買ってクリスマスを迎えることが国民的行事になっていたということがわかります。恐ろしや。

 で、荒井由実時代のことについては実はほとんどよく知らないということで、何年か前に慌てて「ひこうき雲」など買って聴いたりしたんですが、改めて表題のアルバムに収められた曲の中から荒井由実時代の作品に注意しながら聴いていると、そりゃまあ、我々の上の世代が崇め奉るのもよくわかります。私も今後は改めてユーミンの旧作をアルバム1枚ずつ、ゆっくり味わってみようと思っています。

 大衆音楽家の先進性というのは、当然、その時代と込みで考察されるべきであり、当時の荒井由実が出てきたときに他にどんな音楽が流行していたかを考えるとその突出ぶりはすごいです。例えばアルバム「ひこうき雲」が発売された1973年のヒット曲をWikipediaでひろってみると、「おんなの道」「喝采」「危険なふたり」とか梶芽衣子「怨み節」とか出てくるわけですよお立ち会い!
 若者(大学生あたり)に対象を絞り込んだとしても「神田川」「心の旅」「ひなげしの花」「てんとう虫のサンバ」とか…。おそらく多少なりとも音楽に関心がある人にとっては、1999年当時の宇多田ヒカル「Automatic」がそうだったように、「これは買って聴かなければいけない」とつき動かされるような新しさがあったことは間違いないと思います。

 初期のユーミンを聴くことは、はっぴいえんどの流れを汲むキャラメル・ママまたはティン・パン・アレーの演奏を楽しむことでもあります。今の高度に処理されたカラオケを聞き慣れた耳には、多少もたつきを感じさせる箇所もあるような気がしますが、当時最新の演奏法を取り入れ解釈し再現することの初々しさを感じさせ、逆にすーっと聞き流すことを許さない演奏になっていますね。

2019/05/04

The Best Year of My Life/オフコース

 過去に何度か名前だけ出して項目を作っていなかったので、1984年のアルバム「The Best Year of My Life」の話も書いておきます。

 オフコースの最盛期はやはり武道館10日間コンサートをやりきった1982年でしょう。前年の秋にはNHKがアルバム「over」のメイキングを「若い広場」の枠でドキュメンタリーとして放映しましたし、6月の武道館公演あとの9月にはTBSで2時間の特番「NEXT」が放映されました。シングルヒットとしては1980年の「さよなら」が突出していますが、その後のライブの動員やアルバムの売り上げは82年の方が大きかったと思います(すみません、すべて記憶で書いていますので、ちゃんと知りたい方はちゃんと調べましょう)。
 しかし、武道館コンサートを区切りとして、グループ結成以来のコンビだった鈴木康博が脱退したことで、オフコースは無期限活動停止してしまいます。天下を取ったような、もう少し上に行けたような、微妙な状態でした。大メジャーになるチャンスを自ら放棄したようなその活動停止は、当時の経過をやはりドキュメンタリーとして執筆していた故・山際淳司に「オフコースは早漏だった」と書かれてしまいました。

 そしておそらくいろんな事情で、鈴木康博がいなくなった4人のまま、1984年にオフコースは活動を再開し、今日のお題であるアルバム「The Best Year of My Life」を発表します。先行シングルである「君が、嘘を、ついた」はなぜかフジテレビ「オレたちひょうきん族」の「ひょうきんベストテン」コーナーにご本人登場という形でプロモーションビデオが本邦初公開されました(よく覚えてるなあ、我ながら)。「スリラー」以降、世界的に流行した凝ったプロモーションビデオを作っていたのもこの頃ですね。

 4人になってからのオフコースのナンバーは、最近になって何度も発売されるベスト盤でも冷遇されているみたいで、「YES-YES-YES」の後すぐに「君住む街へ」になっておしまい、みたいなのが多いんですが、私はこの頃から解散手前までのオフコースの曲が好きでした。とはいえ、一般の人にとっては後期オフコースの曲って、「君が、嘘を、ついた」でだいたい完結していると思いますから、このアルバムはお買い得だと思います。後期オフコースのライブで欠かせない、「夏の日」「緑の日々」も入っていますし、私が以前、AKBの「ラブトリップ」に(が、ですね)似てると書いた松尾一彦のナンバー「愛を切り裂いて」も入っています(笑)

 5人時代のオフコースは良くも悪くも小田・鈴木の二頭政治の緊張感がすごくて、小田さんも異常にストイックな感じの曲作りと歌いぶりだったんですが、4人体制になって誰がどう見ても「小田バンド」になった小田さんは、いい意味で曲作りにも歌いっぷりにも少しではありますが中年らしい「生臭み」が加わってきます。「よるがなあがれえていくう」みたいに高音で大きなコブシを回す感じとか「いきがとまるうーううー」の唸りとか。歌詞も恋愛がらみの即物性が加わってきます。

 以降、ライブでもサポートメンバーを入れることが前提になって、それまでほとんど使ってこなかった金管の音や打ち込みのリズムを使い、明らかにジェネシスおよびフィル・コリンズ風の分厚いロックサウンドを臆面もなく展開するようになりました。

2019/05/03

K.ODA/小田和正

 連休中に気が大きくなったので、iMacの画面下で鳴らすためのBluetoothスピーカーを買ってきました。BOSEのSondLink Mini Ⅱです。ビックカメラのポイントが何千円ぶんかあったので、ちょっと足してJBLあたりの8,000円くらいのを買ってくるつもりでしたが、たまたま「再販されました!」とか書いたPOPがついてたもんだから。
 おかげで予算に対して経費が倍になってしまいました。

 さて、新しいスピーカーで何を聴こうかと思うと私の場合はオフコースの「over」がどう聞こえるのかってことになっているのですが、そういえば久しぶりに昔の小田さんも聴こうかと思って、昔カセットで買った気がする「K.ODA」を改めてiTunes Storeで落としてみました。バラで1曲250円、アルバム8曲2,000円。まんまやん!

 さて、この「K.ODA」はオフコースの末期活動中だった小田和正が満を持す形で世に問うた初のソロアルバムです。発売は1986年、この後オフコースを1989年に解散、あの「ラブ・ストーリーは突然に」が1991年です。
何も知らない人に「小田和正は何を聴けば良いか?」と尋ねられたら、ソロならこのアルバム(オフコースなら「over」と「The Best Year of My Life」ね)と答えます。そのくらいこのアルバムは小田和正のど真ん中にあるアルバムだと思います。オフコース好きだけど、松尾一彦の声とかいらないんだよねー、という人、小田さんの声だけでオフコースを聴きたい人はこれを聴けば良い。そのくらいオフコースの音楽と地つづきですし、「ラブ・ストーリー〜」以降の小田サウンドへのブリッジとしてもわかりやすいです。

 1曲めのタイトルが「切ない愛のうたをきかせて」。すごいでしょ。時はニューミュージック末期、数年後にはレコード屋さんのコーナー分けも「J-POP」とか書き始める寸前のこの頃、小田さんが見つけた「ニューミュージック」の最終定理の解=「切ない愛のうた」が最初に置かれているわけです。実は玉置浩二も気づいていたようなのですが、タイトルとして残したのは小田和正でした。オフコース自体は自分たちが「ニューミュージック」であると規定していたわけではないようですが、それはL'Arc-en-CielやGLAYが「俺たちはビジュアル系じゃない」と言っていることと世間の目のギャップ、とほぼ同じことなんだと思います。

 「K.ODA」に戻りますが、小田さんが作る切なくて売れそうな曲の展示会のようなアルバムで、どれをシングルにしてCMタイアップにしても絶対嵌る、捨て曲が一つもないです。

SCIENCE FICTION/宇多田ヒカル

前回の更新から2年近く経ってしまいました。その間に会社を定年退職したり引っ越ししたりで自分のことで精一杯でしたが、まあ晴れてほぼ自由の身(経済的にはどんどん不自由になるわけですが)ということで、これからは身バレしようが炎上しようが誰にも迷惑がかからないことになっています。 さて、...