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2019/02/03

Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018/宇多田ヒカル

先週の日曜日、前日になってBSスカパーで宇多田ヒカルのライブが放映されることがわかって、慌てて録画をとりながら視聴しました。あー驚いた。

昨年秋に行われた全国ツアーの最終日の実況とのこと。タイトル"Hikaru Utada Laughter in the Dark"はまたまた一筋縄ではいかない感じの矛盾した概念を表しています。ちょっとこのところこの路線の頻度高すぎませんか?と思って、元ネタを探ってみたらナボコフに同じタイトルがあるようです。「暗闇の中の笑い」、試される教養。

セットリストはやや地味というか渋い印象で、ズンドコお調子系の曲はかなり絞り込まれています。休養前のヒット曲は前半にメドレー形式でぽんぽんと放り込まれて客席を温めたあとは最新の2枚のアルバムのナンバーをじっくり聴かせる構成。相変わらず、歌以外のパフォーマンス(MCや肉体を使った表現部分)にはデビュー以来の素人臭さを感じさせつつ、ドレスから露出した肩や腕には定期的なトレーニングを欠かさないプロ意識をにじませていました。

また、前半終了後の着替えタイムには、芸人であり芥川賞作家である又吉直樹の脚本・出演によるコントビデオ(なぜか笑いの質がドリフあるいはゲバゲバ90分的)が上映されるというおまけ付きでした。

さて、新作アルバムでもそうなのですが、このライブを見ていて少し心配になったのは、ひとつはちょっと声が細くなったかな、というところ。歌声としては休養寸前の、ネット配信された横浜スタジアムのライブの頃がもっとも脂が乗っていた感じで、まだそこまで戻ってないかなと思いました。まだ三十代なので、衰えではなく出来上がってないだけだと思いますが。
もうひとつは作品のことで、復帰以来、「母親の鎮魂」というテーマが非常に大きいのはわかるのですが、自分が母親になったことがあまりストレートに作品に反映されないのがちょっと気にかかります。クマのぬいぐるみにも歌を捧げていた彼女の私小説作家的体質を思えば、そろそろ子供との関係を題材にした曲がもっと生まれてきても良いのではないかなあ、と余計な心配をしてしまいます。ことによっては童謡集作るくらいのことをしても不思議ではないんだけど(太田裕美はそうなって、昔からのファンは置き去りにされましたので、そうなってほしいわけではないんですが)。

宇多田ヒカルの家庭環境を思うと、子供を生むということについてもいろんな葛藤があったと思うし、現在はシングルマザーになっているわけですから、いろいろ苦労していると思います。なにかあったときに駆け込む実家にはおばあちゃんはいないわけですし。プロデューサー宇多田照實氏が全面協力しているんだとは思いますが、さてその実際はどうなのでしょう。
https://hikaruutadatour2018.jp




2009/05/19

オフコースのライブビデオ2本/OFF COURSE

はてなダイアリーの方で書いたんですが、3年ほど使ったTVが壊れまして、部品保有期間内であるにもかかわらず「部品が無いので修理ができません。保証期間相当の差額を返金しますから(新しい地デジTVを買ってください)」といわれ、結局DVDレコーダーと液晶モニタを買ってきた私です。ついでにLogicoolの4000円の2.1chスピーカーも付けて、それじゃサウンドチェックでもするべえとオフコースのビデオを見ております。オフコースの音がどう聞こえるか、が昔からの私の基準なんです。


80年代ニューミュージックの頂点であり、また人気絶頂期と解散問題が重なって、周囲の様々な思惑の中で迎えた前人未到の武道館10日間コンサートの最終日。その公演の、アンコールを除いたほぼそのままの実況です。鈴木康博のオフコースとしての最後のステージでもあります。
MCは最小限というか上記のような各種問題にも一切触れず、ただ「言葉にできない」での小田和正の涙、スクリーンに映された"We are over""Thank you"のメッセージのみ。
そしてレコードの音をいかに5人で再現するかに拘った緊張感の高いステージなど、いつみても疲れるビデオです。
そしてこの頃のオフコースのバンド編成は僕のような素人が音声+画のヒント付きでぎりぎり楽器音が拾える限界でもあります。バンドスコアも出ているので、このセットでお勉強すれば作曲なんかも見よう見まねでできるようになります。


一方こちらはその5年後、"as close as possible"ツアーのライブビデオです。
音楽用のデジタル機器の実用化が進み、シーケンサーとの同期演奏をするようになっています。ドラムスの大間ジローがヘッドホンをしているのはガイドクリックを聴いているからでしょう。また、金管とキーボードにサポートメンバーが入り、今の小田和正がやってるライブの形態に近くなっています。適度に編集されて1時間ちょっとにまとめられていますし、不要な緊張感も無いので、娯楽作品としてはこちらの方が好きです。

2008/12/13

シンフォニック・コンサート 2008/小椋佳(&東京フィルハーモニー交響楽団)

私には大変珍しい事ですが、知人の誘いがあったのでコンサートに行ってきました(音楽が趣味と言っている割にコンサートには滅多に行かない。この前に行ったのは一昨年のビリー・ジョエルのナゴヤドーム公演で、その前は2000年の宇多田ヒカルのファーストツアーなんですorz)。12月10日に渋谷のBunkamuraオーチャードホールで行われた、小椋佳と東京フィルハーモニー交響楽団による「シンフォニック・コンサート 2008」です。


小椋佳は、現段階では「夢芝居」とか「愛燦燦」とか、結果としてショップの棚割り的には「演歌」とされるヒット曲を持つ作家ですが、もともとは「ニューミュージック」の最初のランナーの一人でした。世代としては「団塊」より2〜3歳上ですが、デビューは1971年ですから、団塊世代と同じか少し遅れ気味にキャリアをスタートしています。
音楽性無視の乱暴なメッセージソングとしてのフォークでなく、大先生が大量生産するいわゆる歌謡曲でもない、アマチュアの善良性と美しいメロディを併せ持つ新しいジャンルの流行歌(=ニューミュージック)。ただし、他のニューミュージック系アーティストのようなビートルズおよびそれ以降のロックからの影響は表立って見られません。戦前戦後を通じた日本の流行歌の良心のようなものを再生するような方向性が感じられます。

また、そのもっとも注目されていた時期に、彼は東大卒のエリート銀行員であり続けたというところも特異なところで、メガヒットを持ちながらも専業音楽家でなかったライフスタイルも独特でした。その全盛期に中学生だった私もその音楽にはいろいろと影響を受けました。
しばらく前に大病をして、その後は声も衰えた印象があったので、いかがなものかと思いながら会場に足を運びました。

小椋佳は、もともとどんな曲でも唄いこなすような実力派歌手ではありません。生まれ持った声質が良く、その声の説得力で通用してしまう人(松山千春も同じタイプですが、あっちは芸能人パワーが強いので「実力派」に収まってる)です。小椋佳の声は木管楽器のようで、オーボエに似ています(人の声を楽器に喩えるのもどうかと思いますが、ついでに書いちゃうと宇多田ヒカルはバイオリンに似ています)。

そんなわけで、10日のコンサートでも時々声が裏返ったり、マイペースなテンポでオーケストラを振り回したりしながらも最後まで唄いきってくれました。特に肩が暖まった(?)後半は安定して、声が良く出ていました。途中のMCで本人が言っていましたが、歌の中でテンポを変えることによって「自分なりの説得力」を付与しているつもりなのだそうで、「ポップスのバンドだと気にせずにオンタイムで演奏を続けてくれるんだけれど、オーケストラはそれに合わせようとしてくれるので、却って申し訳ない」と言っていました。この話も深めると面白いのですが、多分とても長い余談になるので、今日は止めます。
MCは饒舌で、選ぶ単語は抑制されているのに、内容はそれなりに辛辣な話をするのが良い意味でインテリ臭く、庄司薫のエッセイ等と共通する匂いがあります。

さて、久々に小椋佳を聴いて、確認できたことがいくつかありました。
これはCDで改めて拾ってみたのですが、彼の曲はほとんどC3〜D4(最大でA2〜F4くらい)で作られており、一般成人男性が一緒に唄ってストレスが無い音域で作られています。もっと高いキーのように聴こえるのですが、彼の高音部はキー以上に伸びやかな印象を受ける声になっているのです。

もう一つは曲の作り方、構成の仕方の特徴です。
初期の自身のヒット曲や、布施明・中村雅俊らに提供した曲は、ちゃんと分析すると、A-A-B-A-Bというパターンが多い(これより後の「夢芝居」はA-A'-B、「愛燦燦」はA-(B)-Cと、わりと普通)んですが、この"A"の部品が大きい。この"A"だけで展開がくるくると代わり起承転結があるので、それだけでもう1コーラスの様に聴こえる。ところがそれを2回繰り返して2コーラスが終ったのかと思うと、そこから更に派手な"B"が来て、聴いている方は「こりゃうれしい不意打ちじゃわい」という満腹感があるのです。

こうした構成は、その後のニューミュージックでA-B-A-B-C-Bみたいな「大サビ付き」という形で一般化するので、今の人にはありがたみが分からないかもしれませんが、当時の歌謡曲やフォークではあまり見られない構成でした(ひょっとしたら「無法松の一生〜度胸千両入り〜」あたりがその大元かもしれない)。
ということは、小椋佳はその頭の良さから、曲をかなり俯瞰で見ながら作っているのではないかと思われます。生まれてくるメロディがその瞬間に曲全体の構成の中でどういう位置にハマっていくのかが見えてくるような。構成を決めて、コード進行を決めて、後は現物合わせ、というニューミュージック的作曲法はしていないような気がする。昔の腕のいい大工さんが図面を引かなくても家を建てられたように、頭の中に全体像がぱーっと浮かぶんじゃなかろうか?と同時に、唄う快感にも敏感な人なので、部品単位でちゃんとおいしいメロディを紡いでいきます。

Mine or Yours/宇多田ヒカル

ベストアルバム"SCIENCE FICTION"を買った後しばらくぼーっとしていましたが、5月になった途端にYouTubeでライブ配信的なものを見かけました。配信は途中から見たのですが、過去のMVが次々流れていて、いつから新作発表になるのかわからず、見るのやめ...