まだ発売されていないアルバムの話です。
来月、2月18日発売予定の和幸2作目、「ひっぴいえんど」です。
タイトルを見れば内容がほぼ分かり、私はこのアルバムが発売されることを知って以来、これだけは買わなくてはいけない気がしているのです。
加藤和彦流に「日本語のロック」のおとしまえがつけられるのか、それとも「あれ」のパロディなのか?
私の予想では60〜70年代ロックのサウンド(サイケデリック・ロックとかも)に変な日本語が載っているという方向ではないかと思いますが…。
そういえば、こないだこんな本も買ってきました。
坂崎幸之助のラジオ番組をテキストに起こしたものです。それこそ岡林信康や遠藤賢司やなぎら健壱、大滝詠一に小田和正と60年代から活躍しているフォーク、ニューミュージックのスタアたちが坂崎幸之助のジジイ転がしに乗っかっていろいろ喋っている、という本です。
少ない情報、貧しい暮らしの中で必死に何かになろうともがいてきた彼らの発言は、時に滑稽だったり妙な迫力があったりですが、新しいものが始まる最初に立ち会えた幸福感に満ちています。冒頭に3人揃った最後のNSPの語りがあり、中盤では天野滋追悼の放送も収録されています。
2/7追記
和幸「ひっぴいえんど」のオフィシャルサイトができていますね。
http://columbia.jp/kazukoh/
試聴もちょっとできますが、ちょっと予想と違うなあ。
2009/01/27
2009/01/19
男と女-TWO HEARTS TWO VOICES-/稲垣潤一ほか
せめて週末には更新したいのですが、風邪をひいて寝込んでしまったので1日遅れです。
しかもUtada新作問題は、書くととても大変そうなので後回しにして、今日はニューミュージックの話に戻りつつもやや寄り道、ということにします。
TVでも盛んにCMが流れている、稲垣潤一と女性歌手によるカバーアルバム「男と女-TWO HEARTS TWO VOICES-」を聴いています。会社の同僚から回してもらいました。
私がつくづく「ニューミュージックだなあ」と思うど真ん中辺りにいる人が稲垣潤一です。「ニューミュージックの真ん中」とはなんぞや?ていうか「ニューミュージックとはなんぞや?」と考えたとき、稲垣潤一はその最大公約数な感じがするのです。
これは好き嫌いの問題ではなく、私なりの客観的な考察の上で本当にそう思ったから書くのですが、「ニューミュージック」というのは「フォークソングによってすっかり素人との区別がつかなくなった大衆音楽をもう一度プロフェッショナルなもの、または品質管理可能なものへと修正して行く途中のもの」であると思います。
同じことですが、歌へた・演奏へた・曲はむっちゃくちゃ(勢いだけはあった)だったフォークソングをマスメディアで扱えるように、大人が手伝って最低限の音楽理論や普遍性を付加して、TVの歌番組に嵌められるように直していった過程が「ニューミュージック」だった、と思うのです。
それが完成して何になったか、というとJ-POPです。前にも書きましたが、80年代にアーティストと呼ばれていた人と、今のTVに出てくる(あまり出てこない人も)J-POPのアーティストを比べたら、今の人たちの方がずっとレベルが高いです。曲だって凝ってるし、歌唱も演奏も素人とは一線を画すものを持っている人が多いと思う。
誰だったか忘れてしまいましたが、今の若い人に80年代のアイドル歌手の歌を聴かせたら、「わざとヘタクソに唄っているんですか?」と言われた、という話を書いている人がいました。アイドル歌手に限らず、80年代に「アーティスト」と呼ばれていた人で「こりゃちょっと真似できねえや」と素人に思わせる人なんてほとんどいませんでした。
強いて上げれば井上陽水やクリスタルキングの人の声とか、Charのギターとか、矢野顕子の歌とピアノとかでしょうか?
曲の構成だって耳コピーは無理でも、バンド譜を入手すれば意外と単純に再現できそうなのが多かった(実際に演奏技術があるかどうかは別にしても)。そういう意味で「ニューミュージック」の時代は、売れている音楽が我々素人が手を伸ばして届く辺りをさまよっていたのだと思います。
稲垣潤一も、今の人には信じてもらえないかもしれませんが、私らの若い頃は使われる形容詞はともかく、メディアで紹介される時には「実力派」という意味を付与されて流通している名前でした。
おそらく今のポルノグラフィティとかコブクロを聴き慣れている人たちが、このアルバムを聴いて「稲垣潤一ってすげえ上手いなあ」とか言わないと思います。私はこのブログで「うまい・へた」ってなんだという話を何遍か書いてきて、いろんな人の良いところを見つけてきたつもりですから、稲垣潤一の良いところも書くことができます。
例えば声質が独特の硬質さを持っていて、しかもその堅さが嫌な感じじゃなく、年齢を超越したイノセンスが感じられるところとか。あるいは歌詞が伝わりやすいし(CDで聴く限り)音程もしっかりしているとか…。
逆に「何を唄っても同じ唄い方しか出来ない不器用な人」とか「声質が違うのに無理矢理郷ひろみの真似してる人みたい」とか、悪く書くこともできます。
結論として、稲垣潤一は個性的で商品価値はあるけれど、「実力派」とは違うと思います。
さて、このアルバムでは稲垣潤一も、参加している女性歌手も(我が愛しき太田裕美も)、主役とサポートの攻守を上手く入れ替えながら、楽しく聴けるできばえになっています。
1曲だけ質感が違うのは、「ドラマティック・レイン」を中森明菜と唄っているトラック。中森明菜も商品価値はあったけど本当の実力派ではなかった人なので、二人のデュエットはスナックのカラオケで字幕の♠と♡のマーク見ながら合わせて唄っているように聞こえます(中森明菜にボイスコントロールという概念が無い?)。
そんなことばっかり書いて、あなたは稲垣潤一や中森明菜を熱心に消費してきた世代として偉そうなことが言えるのか?と問いつめられそうですが、最初に書いたようにそれが嫌いだというわけじゃない。そして若い頃に愛しくも歯がゆい、そういうレベルの音楽に囲まれていたからこそ、なんの専門的な音楽教育を受けていないにもかかわらず「今に見ていろ俺だって」と音楽を諦めずに生きてこられたわけです。
それに引き換え、現代J-POPから音楽に入った若い人は大変だ。
素人とプロの境目にある壁が、相当高くて立派になっちゃってる(例外はあるけれど。またおいおい触れますが)から、よっぽど渇きを感じていない限り、若くても素人に徹してカラオケボックスに行っちゃうもんね。
しかもUtada新作問題は、書くととても大変そうなので後回しにして、今日はニューミュージックの話に戻りつつもやや寄り道、ということにします。
TVでも盛んにCMが流れている、稲垣潤一と女性歌手によるカバーアルバム「男と女-TWO HEARTS TWO VOICES-」を聴いています。会社の同僚から回してもらいました。
私がつくづく「ニューミュージックだなあ」と思うど真ん中辺りにいる人が稲垣潤一です。「ニューミュージックの真ん中」とはなんぞや?ていうか「ニューミュージックとはなんぞや?」と考えたとき、稲垣潤一はその最大公約数な感じがするのです。
これは好き嫌いの問題ではなく、私なりの客観的な考察の上で本当にそう思ったから書くのですが、「ニューミュージック」というのは「フォークソングによってすっかり素人との区別がつかなくなった大衆音楽をもう一度プロフェッショナルなもの、または品質管理可能なものへと修正して行く途中のもの」であると思います。
同じことですが、歌へた・演奏へた・曲はむっちゃくちゃ(勢いだけはあった)だったフォークソングをマスメディアで扱えるように、大人が手伝って最低限の音楽理論や普遍性を付加して、TVの歌番組に嵌められるように直していった過程が「ニューミュージック」だった、と思うのです。
それが完成して何になったか、というとJ-POPです。前にも書きましたが、80年代にアーティストと呼ばれていた人と、今のTVに出てくる(あまり出てこない人も)J-POPのアーティストを比べたら、今の人たちの方がずっとレベルが高いです。曲だって凝ってるし、歌唱も演奏も素人とは一線を画すものを持っている人が多いと思う。
誰だったか忘れてしまいましたが、今の若い人に80年代のアイドル歌手の歌を聴かせたら、「わざとヘタクソに唄っているんですか?」と言われた、という話を書いている人がいました。アイドル歌手に限らず、80年代に「アーティスト」と呼ばれていた人で「こりゃちょっと真似できねえや」と素人に思わせる人なんてほとんどいませんでした。
強いて上げれば井上陽水やクリスタルキングの人の声とか、Charのギターとか、矢野顕子の歌とピアノとかでしょうか?
曲の構成だって耳コピーは無理でも、バンド譜を入手すれば意外と単純に再現できそうなのが多かった(実際に演奏技術があるかどうかは別にしても)。そういう意味で「ニューミュージック」の時代は、売れている音楽が我々素人が手を伸ばして届く辺りをさまよっていたのだと思います。
稲垣潤一も、今の人には信じてもらえないかもしれませんが、私らの若い頃は使われる形容詞はともかく、メディアで紹介される時には「実力派」という意味を付与されて流通している名前でした。
おそらく今のポルノグラフィティとかコブクロを聴き慣れている人たちが、このアルバムを聴いて「稲垣潤一ってすげえ上手いなあ」とか言わないと思います。私はこのブログで「うまい・へた」ってなんだという話を何遍か書いてきて、いろんな人の良いところを見つけてきたつもりですから、稲垣潤一の良いところも書くことができます。
例えば声質が独特の硬質さを持っていて、しかもその堅さが嫌な感じじゃなく、年齢を超越したイノセンスが感じられるところとか。あるいは歌詞が伝わりやすいし(CDで聴く限り)音程もしっかりしているとか…。
逆に「何を唄っても同じ唄い方しか出来ない不器用な人」とか「声質が違うのに無理矢理郷ひろみの真似してる人みたい」とか、悪く書くこともできます。
結論として、稲垣潤一は個性的で商品価値はあるけれど、「実力派」とは違うと思います。
さて、このアルバムでは稲垣潤一も、参加している女性歌手も(我が愛しき太田裕美も)、主役とサポートの攻守を上手く入れ替えながら、楽しく聴けるできばえになっています。
1曲だけ質感が違うのは、「ドラマティック・レイン」を中森明菜と唄っているトラック。中森明菜も商品価値はあったけど本当の実力派ではなかった人なので、二人のデュエットはスナックのカラオケで字幕の♠と♡のマーク見ながら合わせて唄っているように聞こえます(中森明菜にボイスコントロールという概念が無い?)。
そんなことばっかり書いて、あなたは稲垣潤一や中森明菜を熱心に消費してきた世代として偉そうなことが言えるのか?と問いつめられそうですが、最初に書いたようにそれが嫌いだというわけじゃない。そして若い頃に愛しくも歯がゆい、そういうレベルの音楽に囲まれていたからこそ、なんの専門的な音楽教育を受けていないにもかかわらず「今に見ていろ俺だって」と音楽を諦めずに生きてこられたわけです。
それに引き換え、現代J-POPから音楽に入った若い人は大変だ。
素人とプロの境目にある壁が、相当高くて立派になっちゃってる(例外はあるけれど。またおいおい触れますが)から、よっぽど渇きを感じていない限り、若くても素人に徹してカラオケボックスに行っちゃうもんね。
2009/01/10
Come Back To Me/Utada
Island Recordsのメールマガジンに登録していたら、宇多田ヒカルの海外プロジェクトのニュースが届きました。
国内メディアではちょっと気がつかなかったんですが、もうすぐ2作目のアルバムが出るみたいで、先行してMySpaceに"Come Back To Me"という驚くほどベタなタイトルの曲がアップされていて、ほぼフルで試聴できるようになっています。
3回くらい聴くと耳に馴染んでいい感じになってきます。曲調としては"ULTRA BLUE"の頃の緊張感を感じさせるもの。
海外向け第1作のEXODUSとのつながりなんかも探りながら改めて感想を書きたいので、今日のところは深入りせずにニュースだけ書いて引き下がります。
あくまでもファースト・インプレッションなんですけど、普段の国内用の曲に感じるユーモアがあんまり感じられず、なんかよそ行きに聴こえるのは私が英語の曲を聴く力がないからなのかなあ…。
近日中にもうちょっと書きたいと思ってます。
国内メディアではちょっと気がつかなかったんですが、もうすぐ2作目のアルバムが出るみたいで、先行してMySpaceに"Come Back To Me"という驚くほどベタなタイトルの曲がアップされていて、ほぼフルで試聴できるようになっています。
3回くらい聴くと耳に馴染んでいい感じになってきます。曲調としては"ULTRA BLUE"の頃の緊張感を感じさせるもの。
海外向け第1作のEXODUSとのつながりなんかも探りながら改めて感想を書きたいので、今日のところは深入りせずにニュースだけ書いて引き下がります。
あくまでもファースト・インプレッションなんですけど、普段の国内用の曲に感じるユーモアがあんまり感じられず、なんかよそ行きに聴こえるのは私が英語の曲を聴く力がないからなのかなあ…。
近日中にもうちょっと書きたいと思ってます。
2009/01/03
決定盤!!「ニュー・ミュージックの時代」ベスト〜その4〜(パープルタウン/八神純子)
新年おめでとうございます。
今年もいたってマイペースに書き進めて参りますが、よろしくお願いします。
年末は毎度のことですが、結構熱心に紅白歌合戦を見て、今の日本の音楽の裾野の広がりとその真ん中はどこにあるのかと観察しておりました。演歌勢の相変わらずの現場での強さと、若手J-POP勢の保守化が目立ちました。景気が悪くて冒険ができないのか、抽き出しがないのか、もう私には読み取れないのですが、「そんなに『イイ歌だ』と言われることが大事なんですか?」と作り手に訊いてみたい気分になりました。聴き手を信用してないんでしょうなあ、というか今の若い購入層たちは、相当バカにされていると思いますよ。
一方、昨日は母のマンションで、自宅では見られないBSで「大集合!青春フォークソング」というのを見ていました。はっきり言って現代で鑑賞に堪える音楽性があるのは一握りで、山崎ハコなんてこんなもんだったのかなあと変な感慨に耽る一方で、岡林信康の神様ぶりに圧倒されたりして、全体ではとても面白かったです。バブル前夜の80年代に青春を送った私にはほとんどリアリティが感じられなかった「チューリップのアップリケ」なんて歌が、今の時代のひどさに再びマッチし始めた恐ろしさ。
かつて日本語の問題シリーズをやったときは、言葉ののせ方とかのテクニックの問題に終始しましたけど、聴き取れたところですっかり角が取れてつるつるになった抽象的な歌詞から何かを読み取ることは、どのみち難しいということに気がついてしまいました。
これだけ若者が虐げられている世の中で、それを具体的な場面を描写しながら怒りや悲しみを唄う若者が出てこないのは不思議な気がしますが、それもこれも社会的メッセージを「カッコワルい」で否定した「ニューミュージック」の後遺症なのかもしれないなあ。
そんなわけで「決定盤!!「ニュー・ミュージックの時代」ベスト」からの4曲目は
M6.パープルタウン/八神純子
です。
私はこの頃、今までの人生で一番熱心に歌番組を見ていましたが、この曲は出てくる度に「作詞・作曲」のクレジットが変わるという、コドモ心にも不思議な現象が起きていたことを覚えています。今となってはWikipediaにも記述があるほど有名な話ですが、この曲は最終的に邦題「ロンリー・ガイ」とされるRay Kennedyの曲に八神純子のオリジナルなメロディを付け足したものである、ということになっています。
以前、広瀬香美の話の途中や「ポーラー・スター」のお題でこの人について書きました。好き嫌いで言うと私はこの人の声が好きだし、作品もフォーク・ロックの世界に歌謡曲的「歌心」を持ち込んで「ニューミュージック」という分野を拡大した人であると思っています。宮川泰のザ・ピーナッツ用の曲を思い出させる、洒落た中にも歌謡曲的に唄って楽しい要素が入っているのが良い。
ただ曲作りにおいてちょっと元ネタがはっきり分かりすぎるという欠点があったかな、と。彼女の最初の大ヒットである「水色の雨」にもそっくりの外国曲があるという指摘は当時からされておりました(私は後から自分で気がつきましたがデビュー曲の「思い出は美しすぎて」もユーミンの「あの日に帰りたい」そのまんま)。
「パープルタウン」では、A-B-Cと展開する曲のうち、歌メロは違うのだけれどもA-Bとさらにイントロまでもがあまりにも「そのまんま」だったので、言い訳ができなかった、ということでしょう。歌メロは大幅に書き換えられており、アレンジャーに罪をかぶせることはできなかったのかな?と思いましたが、"I love you more and more"のメロディがまんまなので、やっぱり確信犯ですね。
今なら「サンプリング」しました、と言ってはじめから「ご挨拶」しておけば、問題なかったのだと思うのですが、まあしょうがないか!
さて、実際にこの曲を聴いてみると、突然健康的になる後付けのサビも含めて、上手に唄っています。
歌詞を読むと、事情は良く分かりませんが、彼氏と喧嘩かなんかがあって、「一人でニューヨークに来てみたらすっかり機嫌が直ったので、仲直りのエアメールを日本に送りました。ニューヨークに来ると元気になっていいですよ」みたいな感じ。当時のJALのキャンペーンソングだったとのこと(Wikipediaによる)。さもありなん。
なんぼ軽薄な80年代とはいえ、こんな生活をリアルに受けとめられる人は少なかったと思いますが、この背伸び感が後のバブルに繋がったんでしょう、多分。
今年もいたってマイペースに書き進めて参りますが、よろしくお願いします。
年末は毎度のことですが、結構熱心に紅白歌合戦を見て、今の日本の音楽の裾野の広がりとその真ん中はどこにあるのかと観察しておりました。演歌勢の相変わらずの現場での強さと、若手J-POP勢の保守化が目立ちました。景気が悪くて冒険ができないのか、抽き出しがないのか、もう私には読み取れないのですが、「そんなに『イイ歌だ』と言われることが大事なんですか?」と作り手に訊いてみたい気分になりました。聴き手を信用してないんでしょうなあ、というか今の若い購入層たちは、相当バカにされていると思いますよ。
一方、昨日は母のマンションで、自宅では見られないBSで「大集合!青春フォークソング」というのを見ていました。はっきり言って現代で鑑賞に堪える音楽性があるのは一握りで、山崎ハコなんてこんなもんだったのかなあと変な感慨に耽る一方で、岡林信康の神様ぶりに圧倒されたりして、全体ではとても面白かったです。バブル前夜の80年代に青春を送った私にはほとんどリアリティが感じられなかった「チューリップのアップリケ」なんて歌が、今の時代のひどさに再びマッチし始めた恐ろしさ。
かつて日本語の問題シリーズをやったときは、言葉ののせ方とかのテクニックの問題に終始しましたけど、聴き取れたところですっかり角が取れてつるつるになった抽象的な歌詞から何かを読み取ることは、どのみち難しいということに気がついてしまいました。
これだけ若者が虐げられている世の中で、それを具体的な場面を描写しながら怒りや悲しみを唄う若者が出てこないのは不思議な気がしますが、それもこれも社会的メッセージを「カッコワルい」で否定した「ニューミュージック」の後遺症なのかもしれないなあ。
そんなわけで「決定盤!!「ニュー・ミュージックの時代」ベスト」からの4曲目は
M6.パープルタウン/八神純子
です。
私はこの頃、今までの人生で一番熱心に歌番組を見ていましたが、この曲は出てくる度に「作詞・作曲」のクレジットが変わるという、コドモ心にも不思議な現象が起きていたことを覚えています。今となってはWikipediaにも記述があるほど有名な話ですが、この曲は最終的に邦題「ロンリー・ガイ」とされるRay Kennedyの曲に八神純子のオリジナルなメロディを付け足したものである、ということになっています。
以前、広瀬香美の話の途中や「ポーラー・スター」のお題でこの人について書きました。好き嫌いで言うと私はこの人の声が好きだし、作品もフォーク・ロックの世界に歌謡曲的「歌心」を持ち込んで「ニューミュージック」という分野を拡大した人であると思っています。宮川泰のザ・ピーナッツ用の曲を思い出させる、洒落た中にも歌謡曲的に唄って楽しい要素が入っているのが良い。
ただ曲作りにおいてちょっと元ネタがはっきり分かりすぎるという欠点があったかな、と。彼女の最初の大ヒットである「水色の雨」にもそっくりの外国曲があるという指摘は当時からされておりました(私は後から自分で気がつきましたがデビュー曲の「思い出は美しすぎて」もユーミンの「あの日に帰りたい」そのまんま)。
「パープルタウン」では、A-B-Cと展開する曲のうち、歌メロは違うのだけれどもA-Bとさらにイントロまでもがあまりにも「そのまんま」だったので、言い訳ができなかった、ということでしょう。歌メロは大幅に書き換えられており、アレンジャーに罪をかぶせることはできなかったのかな?と思いましたが、"I love you more and more"のメロディがまんまなので、やっぱり確信犯ですね。
今なら「サンプリング」しました、と言ってはじめから「ご挨拶」しておけば、問題なかったのだと思うのですが、まあしょうがないか!
さて、実際にこの曲を聴いてみると、突然健康的になる後付けのサビも含めて、上手に唄っています。
歌詞を読むと、事情は良く分かりませんが、彼氏と喧嘩かなんかがあって、「一人でニューヨークに来てみたらすっかり機嫌が直ったので、仲直りのエアメールを日本に送りました。ニューヨークに来ると元気になっていいですよ」みたいな感じ。当時のJALのキャンペーンソングだったとのこと(Wikipediaによる)。さもありなん。
なんぼ軽薄な80年代とはいえ、こんな生活をリアルに受けとめられる人は少なかったと思いますが、この背伸び感が後のバブルに繋がったんでしょう、多分。
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