2009/05/04

PLEASE/RCサクセション

忌野清志郎が亡くなったことについては、はてなダイアリーの方で書きましたので、こちらではRCサクセションの作品について考察しましょう。
私が高校の時にミュージックテープで買ったアルバム、"PLEASE"です。「トランジスタ・ラジオ」が入ってるヤツ。私、この曲大好きなんですよ。
RCサクセション - Please

本来は、一昨年の夏休みの自由研究でやった「日本語の問題」で触れるべきだったのかもしれませんが、忌野清志郎の歌詞の乗せかたがあまりに自然であったので、どちらかというとテクニカルな考察になってしまったあのシリーズでは通り抜けてしまいました。

年代で云うとRCサクセションは1970年前後から活動しているので、「日本語ロック」としてはサザンよりも前、はっぴいえんどの次くらいに位置します。ただしメジャーになったのは80年前後なので、私は「ニューミュージック」の一つとして認識していました。
かたやサザンオールスターズや佐野元春が日本語の実験をしている一方、RCサクセションは自然に聴き取りやすい歌詞をロックサウンドに乗せて唄っていました。この"PLEASE"を通して聴いても歌詞カードが無いと分からないという部分はありません。普通のボリュームで聴いていれば、唄っている内容が100%伝わります。

その理由を考えると、彼らの音楽にはR&Bの要素がかなり入っていて、R&Bは日本語との相性が良いからということが考えられます。余談ですが90年代前半に「和製ブラコン」が流行ったのは、既に演歌がパロディもしくは伝統芸のお手本として以外の商品価値を失っていて、その頃成人になった私たちが聴いたりカラオケで遊んだりするためのジャンルが無かったからだと思いますが、R&Bはその意味で演歌の代替として非常に優れたものでした。
そうした技術論は別にしても、唄っている忌野清志郎の意識として、歌にはメッセージがあるべきで、それを発信するためには聴く側が分かるように唄わなければ意味が無い、と思っていたということが何より大きいんだと思います。

さて、その聴かせたいメッセージはどんなものだったか?
実は80年当時、RCサクセションのような具体的すぎる歌詞は、ださい四畳半フォークを典型として「ニューミュージック」で否定されていたものです。

たとえば同じ頃オフコースで小田和正が書いていた歌詞は5W1Hが全然揃ってません(オフコースは大好きなんですけどね)。
「君が」「そのまま(でいる)」「そのとき」「そこで」「わけもなく」「そんなふうに」
まあ、だいたいこんな感じ。そして、(乱暴に言えば)オフコース以降のほとんどのメジャーなアーティストの歌詞がこんな感じです。良く云えば作り手の限定的なイメージを聴き手にぶつけるのでなく、聴き手が自分なりに物語を付け加える余地を残しているとも云えますが、悪く云えば無責任な歌詞です。

それがRCサクセションだと
「君が」「ズボンを縫っている」「年末に」「アパートの部屋で」「僕の正月用のズボンを仕上げるために」「徹夜で部屋中がゆれるようにミシンをふんで」多分、彼女もいろいろと忙しくてクリスマスには間に合わなかったんでしょうね、などと背景まで見えてきます。

忌野清志郎はその具体的な歌詞から生まれるリスクを自身のこととして引き受けながら表現をしていました。「あきれて物も言えない」では明らかに忌野清志郎自身が誰かに発した言葉として唄っています(Wikipediaによると「どっかの山師」=泉谷しげる ということらしい)。最近でもラッパーの世界では歌詞に気に入らないヤツのことを唄ったりする例があるそうですが、あまりにも歌の世界が閉じていて一般人が共有できないのが残念。あ、桑田佳祐が「孤独の太陽」に当時のメジャーな歌手では珍しく具体的な歌を収録していましたが、すぐ謝っちゃったしねえ…。

閑話休題。
また、RCサクセションの歌詞はいわゆる「ブルーカラー」の若者の歌です。
"PLEASE"の歌詞の世界では、主人公の若者は「金が欲しくて(結構キツい職場で)働いて」いて、夜や週末にカノジョとドライブしたり部屋で過ごしたりすることを生き甲斐にしています。恋人との間では楽しくいちゃいちゃすることもあれば、「妊娠したかも」と新たな苦労が発生したりします。勤めている零細企業にはすぐに「クビだ」というしょぼい社長がいて、給料は上がりません。

今、派遣切りだなんだと若者をめぐる状況は80年代よりも不幸なものになっています(ま、我々オジサンたちも親の代よりも厳しい気がしますが)。何年に生まれて何年に学校を卒業するという確率的要素だけで、就職するにも著しい条件の違いがあるのは不条理だと思うのですが、そのことに対する怒りを忌野清志郎的センスで昇華した歌があっていいと思います。しかし、少なくとも売れてる音楽の中にはそういうものが見当たりません。非常に抽象的で、すべての苦難を自分の精神世界だけで解決(「夢を持って」とか「あきらめないで」とか「自分らしく」とかね)してしまい、自分をその状況に陥れた個人とか組織とか社会に対して具体的な怒りをぶつける歌が不思議なほど出てきません。
別に自分の不幸をすべて他人のせいにしろ、とそそのかしているわけではありませんが、明らかに政治や経済における不備や人災的なものに対してはきちんとその原因を見極め、攻撃すべきは攻撃するのが主体的に生きることだと思うんですけどね。
それに、そういう歌を唄うことでガス抜きすることも大事だと思うんです。今、ガス抜きが出来なくてひとりで内側から爆発しちゃう人が多いじゃないですか?「そうか、そうやって考えて良いんだ」「それを表現して良いんだ」というところから若い人に教えてあげるべきじゃないかと…。

だからキヨシローの追悼も良いんですけど、彼とは違う表現で今の時代に生まれたメッセージを発する、若い才能に光を当てることが大事だし、彼の遺志を継ぐことなんじゃないでしょうか?

0 件のコメント:

SCIENCE FICTION/宇多田ヒカル

前回の更新から2年近く経ってしまいました。その間に会社を定年退職したり引っ越ししたりで自分のことで精一杯でしたが、まあ晴れてほぼ自由の身(経済的にはどんどん不自由になるわけですが)ということで、これからは身バレしようが炎上しようが誰にも迷惑がかからないことになっています。 さて、...